韓国には、かつての日本による朝鮮植民地支配によって、人生を大きく翻弄された人々が数多くいる。その多くは、労働者として強制連行された人々や、日本軍専用の性奴隷(いわゆる「従軍慰安婦」)にされた韓国人たちである。だが、それ以外にも、韓国人の夫と結婚して今も韓国で暮らしている日本女性たちがいる。

総督府の同化政策------------------------
 1910年、朝鮮を「併合」した日本は、力による「武断統治」をおこなった。しかし、1919年に3・1独立運動が起きると「文化統治」という名での懐柔政策へと軌道修正をした。植民地支配に対する朝鮮人の抵抗を抑え、朝鮮を中国侵略の補充基地にするために、朝鮮人への「皇民(皇国臣民)化」政策をおこなった。朝鮮人を天皇に忠実な「日本人」に変えようとしたのである。そのために、日本語使用・神社参拝・日本名への「創氏改名」等が強要され、皇国臣民の誓詞」の学校・職場での斎唱がおこなわれた。
 それだけではなく、日本人と朝鮮人との「内鮮結婚」が国家によって奨励された。その多くが日本人女性と朝鮮人男性との結婚だった。それは、両親が決めた結婚、恋愛の末に周囲の反対を押し切っての結婚とさまざまだったが、いずれにせよ当時の「内戦一体」という国策に沿った結婚だった。朝鮮において「皇民化」政策を推進した「国家総力朝鮮連盟」は「内鮮結婚」した夫婦に対し「内鮮一体の促進上、他の模範と為す」として表彰していた。
 現在、韓国にいる日本人女性の出身地は北海道がかなり多い。それは、日本の炭鉱などに強制連行された朝鮮人との結婚が多かったからだ。日本による朝鮮植民地支配が始まって以降、日本にいる朝鮮人の数は加速度的に増え、1945年には237万人にも達していた。強制連行の増加と共に「内鮮結婚」も増えた。

「内鮮結婚」の象徴-----------------------------------------------

 1920年4月28日におこなわれた日本の皇族・梨本宮方子さんと朝鮮李王朝最後の皇太子・李垠殿下との結婚は、まさしく「内鮮結婚」の象徴」だった。「総督府としては、王公族(朝鮮李王朝=筆者注)を極力日本に同化させるとともに、純粋な王家の血に日本人の血を混ぜることを、統治の要としているのでした」(李方子「過ぎた歳月」)と自ら語っている。「留学」という名で10歳から日本の人質とされていた李垠殿下との政略結婚だったのである。方子さんは、自分の婚約を新聞記事で知ったという。これ以外にも李王朝との政略結婚がおこなわれている。方子さんは、1989年4月30日に87歳で死亡したが、李方子として李王朝の伝統的な葬儀であった。

日本敗戦後の苦難-------------------------------------------------
 1945年8月15日、日本は戦争に負けた。それにより、戦前から朝鮮に住んでいた日本女性たちは、夫と子供たちのいる韓国に残る道を選んで日本への帰国をあきらめた。日本で結婚していた日本女性たちは、日本に残った人もいたが、夫について韓国へと渡った。戦争で荒廃した敗戦国日本に見切りをつけ、大きな希望を持って夫の国へと向かったのである。終戦直後の韓国には1万5000人〜2万人もの日本人花嫁がいたともいわれている。
 玄界灘を渡って着いた釜山港は、彼女たちとは逆に、植民地での夢に破れて帰国を待つ日本人たちでごったがえしていた。36年間もの日本による植民地支配から解放された韓国では、日本女性たちは日本語を使うことを禁止され、家からほとんど出られないような生活が続いた。文化や生活習慣の違いで、夫やその両親とうまくいかなかったり、何よりも言葉で苦労した。そして何とか生活が落ち着き始めた頃、突然起きた朝鮮戦争の戦火に巻き込まれるなど、次々と苦難が待ち受けていた。
 1963年5月31日、日本女性たちは相互扶助と親睦のために「在韓日本婦人会」をソウルで結成した。それは、1966年に「芙蓉会」と改称された。このときに、「警察から日本語を使っても良いと言われたのが何より嬉しかった。」という。
 1965年の「日韓条約」締結によって日本と韓国との国友が回復したため、在韓日本女性たちは次々と帰国して行った。現在、韓国に残っているのは1000人ぐらいと思われる。韓国の田舎には、今でも日本人であることを隠して生活している人がいるので正確な数は分からない。

ナザレ園誕生----------------------------------------------------
 かつて新羅の都が置かれ、現在は観光地となっている慶州には、どこにも行く所のない日本女性たちが暮らす「慶州ナザレ園」がある。1972年10月に開設された当初は、永住帰国する日本女性たちの一時的な寮でもあったが、今では日本女性専用の老人ホームになっている。生活に困窮したり、身寄りがなかったり、家族関係がうまくいかなかった人たちおよそ30人が入園している。「困っても最後はナザレ園がある」という事が、日本女性たちの精神的な支えにもなっているのだ。
 ここには、田舎で暮らしているために、今まで日本大使館や「芙蓉会」が把握していなかった日本女性が重病を患って運びこまれる事がある。1988年に「ナザレ園」に来た小形イシさんもその一人で、乳がんが手に付けられないほど悪化したため、家族が連絡してきて初めて存在が分かったのだ。しかし、結局、1年も経たないうちに亡くなってしまった。
理事長の金龍成さんは、孤児院、老人ホーム・母子寮などを運営してきた。父親は、植民地支配下で朝鮮独立運動に参加して捕らえられ、日本軍の憲兵による拷問で殺されたのだが、金さんはクリスチャンとして日本女性たちの世話をしてきた。日常的には、常務理事の宋美虎さんが中心となって日本女性たちの世話をしている。
 「ナザレ園」では園外で生活している日本女性約100人に、毎月2〜6万ウォン(約2500〜7500円)の援助を長らく続けてきた。また、中国で生活している日本女性30人へも援助をおこなっているという。だが、ここは寄付金を中心に運営されている民間施設であり、これから急速に増えるのであろう入所志望者すべてを収容する事は不可能である。現状では、入ることができるのは生活困窮者のごく一部だけなのだ。

在韓日本女性の現状-----------------------------------------------
 「芙蓉会」では912人(1993年現在)が登録され、各地に14の支部を設けている。各地の芙蓉会では月一回の例会がおこなわれている。事務所があるソウル以外では、支部長の自宅に集まっているが、昼食の後には日本の昔の歌と踊りが次々と飛び出す。この集まりが楽しみで、片道に何時間もかけて来る人も多い。
 日本婦人たちは、老齢化が進むにつれて次第に医療費がかかるようになり、働けなくなった人も増えている。とりわけ、木浦などの田舎で生活している人の生活水準が低い。生活困窮者の今後は極めて深刻である。「ナザレ園」に入所すれば生活の心配はないが、病人を抱えているために入ることの出来ない人たちもいる。
 生活水準は、恵まれた生活をしているのはわずか1パーセントくらいで、他から援助の必要な生活困窮者が半数もいる。すでに夫が亡くなっている人も多いが、子供がなかったり、「日本人」だとして子供からも敬遠されている場合は、より生活が難しい。その他の人たちの生活も楽なのではなく、苦労して育てた子供たちの収入で、ようやく貧困から抜け出したところなのである。
 日本女性たちの国籍は、日本国籍・韓国国籍・二重国籍に分かれており、かつては無国籍の人もいた。国籍を見ただけでも波乱に満ちた人生を示している。1920年〜23年頃に生まれた人が最も多く、現在の平均年齢は74歳である。
 韓国に生活基盤ができ、子や孫たちは韓国人として育ち、今も韓国に残っている日本女性たちは永住帰国を事実上断念している人ばかりである。かつて一事帰国した際に、肉親から冷遇されたり帰国を拒否されたために、永住帰国をあきらめた人もいる。
 韓国に渡ってから一度も一時帰国さえしていない人もおり、死ぬまでにもう一度日本を見たいと望んでいる人もいる。しかし、その日の生活に困っている人には、日本への渡航費用は出せない。今までに一時帰国した事のある人も、日本に住む両親たちがほとんど亡くなってしまった現在、これからの帰国は次第に困難になろうとしている。
 このような在韓日本女性の状況に対し、日本政府は「在留邦人保護」として日本国籍の生活困窮者にのみ「援助金」を支給している。しかし、それは20年以上も前に決められたままの月3万〜4万ウォン(約2400円〜3200円)というわずかな金額で、大使館管轄の地域では40人しか支給されていない。
 日本が朝鮮で植民地支配をおこなった結果、多くの日本女性たちが韓国で暮らすことになり、日本に帰国できなくなってしまった。しかし、在韓日本女性たちは、その事について日本政府の責任を問いただしたり、補償を求めようとはしていない。日本に対して厳しい対応をしてきた戦後の韓国社会の中で、息を殺して生きてきた日本女性にとって、それは極めて困難な事だったろう。そして、今ではあまりにも老い過ぎてしまった。韓国に残った日本女性たちは、近くて遠い「日本」を心のよりどころにしながら、次々と亡くなりつつある。

全て日本人花嫁の戦後 韓国・慶州ナザレ園からの証言
著 書 伊藤 孝司
発行者 劉文
発行所 LYU工房


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