![]() |
人生のほとんどを使って、戦争の犠牲となった人々に。道を踏み外して青少年に。歴史の隅に追いやられた人々に。 韓国、中国、カンボジアや沖縄などへ愚かな人間のした罪を詫びながら癒しと復興のための奉仕の旅を続けています。 今では、その他に、各地で勉強会や講演会を行い、全国の多くのファンによって支持されています。 人間の根本にせまるその講演は多くの感動と反響を呼んでいます。 |
| 略歴 | |
| 昭和 5年 | 2月15日 栃木県鹿沼市に、父荘一、母カエ、の長男として生まれる。 |
| 昭和10年( 5才) | 父荘一死去(44才)。 親族の遺産相続争いのなかで、母カエは相続権を放棄し、4人の子供を抱えて無から出発する。 |
| 昭和17年(12才) | 県立宇都宮中学に在籍。第二次世界大戦の中、戦争と人間の問題に苦悩する。 |
| 昭和22年(17才) | 一燈園創始者の西田天香師に出会い、生涯の師と仰ぐことを決意。一燈園に入園する。 |
| 昭和40年(35才) | 無手の聖尼、大石順教尼に出会い、”無いから出来る”心をひらく。 |
| 昭和42年(37才) | 山田無文老師の侍者としてニューギニアへの慰霊に参加し、歴史に生きる決意をする。 |
| 昭和44年(39才) | 一燈園機関誌「光」の発行責任者となる。 |
| 昭和47年(42才) | 本土復帰した沖縄に入り、沖縄と本土とを結ぶ社会奉仕団「仏桑花の会」の結成に参画し、本土事務局長となる。 |
| 昭和52年(47才) | 世界平和会議日本委員会青年部副幹事長に就任する。 |
| 昭和55年(50才) | 世界平和会議日本委員会人権部会委員長、難民部会委員として活動の基礎を作る。 カンボジア動乱の最中、タイ、カンボジア国境地帯の調査を行い、救援活動を開始する。 |
| 昭和56年(51才) | 世界平和会議人権部会として、韓国原爆被害者協会と接触。 行き詰まっていた渡日治療と生活支援活動を始める。 韓国日本人妻施設「ナザレ園」への支援を開始する。 沖縄南部戦跡第2外科壕に放置されていた遺骨470体を収集し、供養する。 その様子がNHKテレビドキュメント「鎮魂の旅」で放映される。 |
| 昭和59年(54才) | 世界平和会議を退会。大衆運動の展開と愛の実践者の育成を決意し、社会奉仕団体「ありがとう愛の会」を設立し、会長となる。 |
| 平成10年(68才) | 52年に及ぶ一燈園生活にピリオドを打ち、一介の托鉢者として市井に生きる決意をする。 |
| 平成11年(69才) | 長年の韓国への協力活動に対し、大韓民国国民褒賞を授与される。 |
| 平成12年(70才) | カンボジアへの命がけの支援、学校建設などに対し、カンボジア王室より「SAHAMETREI(サハメットライ)」の称号を授与され、またカンボジア王国政府より国家建設功労第1等勲章を授与される。 |
| 平成15年(73才) | 全国学びの会の祈願により、石川洋・燈友会を発足し願主となる。 |
| 平成17年(76才) | カンボジア王国より、今までのカンボジアへの貢献により石川洋・燈友会が国家建設功労第1等勲章を授与される。 |
|
Copyright(C) 2005 Yo Ishikawa All Rights Reserved. |